
けていた主人は、会の皆さまとともに、大変な喜びようでした。中学生になって補聴器をボックス型から耳掛式に変えました。
言葉の教室の先生からは、会話や発音指導を受け、人生相談もしていたようでした。部活動では一年二年は茶道部、卓球部と励み、二年では茶道部の部長をするなど少しずつ、自信をつけていったようです。おばあちゃんとの会話の中で、「外国」を「ぐわいこく」と言ったりしては笑い転げたり、放言がポンポンと出てくるようになったのもこのころでした。
高校受験は私立の女子高に無事合格し、その上、新聞社からのインタビューを受ける貴重な体験をしました。その反面、女子高特有の人間関係で大きな試練のあった時期でもありました。そうしたことを一つのステップ台として持ち前の根性を発揮し、卒業時には成績も学年で上位クラスになっておりました。
学校からの推薦でデザイン専門学校に入学したものの、二年間に凝縮されての課題は娘にとって荷が重すぎたようでした。寝る暇もなく取り組んだ課題も締切りに間に合わず、そうした悪循環にヒステリー気味な毎日でした。半年後には半分ぐらいの人がやめ、娘自身も、「いまだから話せるけど、わたしもさぼって途中下車し海を見ながらボーッを時間を過ごしたこともあった。でも、こうした日々があったからこそいまの私があり、精神的にもプラスになったと思うよ」と、話してくれました。
そして卒業式、厳しかった主任の先生が目を赤くして、「よく頑張った」と握手してくださったそうです。そのとき娘は、「いままでがむしゃらにやってきたことは決して無駄ではなか
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